沈黙の中にひらく美──清宮質文と、武心脱力™という身体詩

我が家には、時を経て崩れた古仏が在る。
顔も、手足も無い。けれど、その“在り方”に、かえって心が落ち着く。
まるで、仏そのものが「語らないこと」の強さを教えてくれているようだ。
最近、改めて心惹かれるのが、清宮質文の作品である。
木版の色が重なりあい、沈みこみ、やがて静寂の底へと届いていく──
その深い静けさは、私にとって“動きの美”と地続きにある。
私は、武心脱力™というメソッドを通じて、「静けさのなかにある力」を探っている。
それは、力を抜くこと。
そして、間に身を委ねること。
形を持たずとも、気配として空間に在り続けること。
その感覚を、詩のかたちで残してみた。
名づけて、「動きの詩篇」。
動きの詩篇|I
重なる色に 身体を沈める
呼吸は 言葉より先に在った
深く 底のない静けさへ
──踏み出さずに、届く場所がある
動きの詩篇|II
手をほどく 目を閉じる 背を委ねる
ただ一度、すべての力を 手放してみる
それは 崩れではない
それが 立ち上がりの起点
動きの詩篇|III
間に、溶けてゆく
形より先に、音より先に
“私”という名の境界が
静かにほどけていく
動きの詩篇|IV
仏のいない仏像のように
語らず、導かず、ただ在る
その沈黙が、
人の心を照らす
これらは、清宮の色彩に宿る深淵と、平安仏の朽ちた美、そして私自身の身体観とが重なりあって生まれた言葉たちだ。
動くとは、ただ動作を行うことではない。
むしろ、「動かないことの中に満ちているエネルギー」に触れること──
そのために、静かに、深く、無駄を削いでいく。
清宮質文の作品を見ると、私はいつも思う。
「ここには、もう何も描かれていない」
──けれど、すべてが在る。
武心脱力™もまた、そうありたい。
語らずに導く方法、削ぎ落として浮かび上がる“存在”のかたち。
その美を、これからも探し続けていくつもりだ。