「在る」とは、間に委ねること──仏教美術と武心脱力™の交差点

平安時代の仏が、我が家に静かに在る。
顔はもう判別できず、手足も無い。ただ一木から彫られたその身体は、時の流れに溶け込み、まるで“トロトロに溶けた”ような気配をまとっている。
それでも──いや、だからこそ──その姿には、深い落ち着きと、静けさの力がある。

この仏との出会いは、一目惚れだった。
美術商の知人を通じて偶然手に入れた平安仏。仏壇ではなく、生活の延長として、ひとつの“祈りの余白”として安置している。

家のあちこちには、時代の異なる古仏たちが静かに佇む。
それは美術品としてではなく、空間における「在る」の手本のような存在たちだ。
彼らは語らない。ただそこに在りながら、私たちに多くを伝えてくる。

ふと思う。
この感性は、武道や茶道──そして武心脱力™にも通じるのではないか。

力まず、整えず、ただ自然に在る。
それは、「間」に委ねるという態度であり、そこに“美”が生まれるということ。

私は、こう言葉にしてみた。

在ることは、間に委ねることだ。
美とは、間に溶け込むことだ。
無限の拡がりに身を浸す。

この言葉は、私が仏像から、空間から、呼吸から受け取った感覚の結晶である。
それは“無”ではない。“空”でもない。
沈黙の中で満ちていく何か──呼吸のように、祈りのように、風のように在るもの。

李禹煥の余白、村上友晴の黒、ピーター・ズントーの建築にも、同じ魂が息づいている。
静かで、強く、誰にも支配されず、誰とも争わず、ただ“在る”という強さ。

武心脱力™は、身体の再起動であり、空間への溶け込みであり、自我の輪郭を滲ませる道である。
それは、仏像と同じく「削られていく中で、なお在る」姿。

今、この感性を大切に育てながら、生きていきたいと思う。
指導の場も、空間も、言葉さえも、すべては「間」であり、「沈黙に浸るための構造」であってほしい。

そして今日もまた、仏像の前で静かに息をする。
この“無限の拡がり”に、そっと身を浸しながら。