「情熱と絶対のあわいに──カーンとミース、そして武心脱力™」

ルイス・カーンとミース・ファン・デル・ローエ。
このふたりの建築家が、私の中に残したものは、
単なるデザインの美学ではない。

それは“生き方”としての構造の問いであり、“在り方”としての沈黙の重量だ。


■ ミース──絶対に整えられた沈黙

ミースの建築は、完璧だ。
線、構造、プロポーション、素材、光。
一切の遊びも情念も排され、ただ静けさが支配している。

そこには「個」など存在しない。
構造そのものが美であり、人格を超えた“法”のようなものが漂っている。

私はその厳しさに惹かれ、同時に、縛られる。

「余計なものを足すな」
「すでに世界は整っている」
そんな声が、ミースの作品から響いてくる。

私が武心脱力™において「力を抜け」「整えようとするな」と語るとき、
その背景には、明らかにミース的絶対主義の影響がある。

だが、その静けさは時に、息苦しい。
完璧であるがゆえに、触れてはいけない空白がある。


■ カーン──魂で打たれた空間

対して、ルイス・カーン。

私は彼に憧れている。
ミースに対して感じる“従属的な崇拝”とは違い、
カーンには、心が寄り添ってしまう。

彼の建築は、静けさのなかに燃えている。
石に魂を吹き込み、光に問いを託し、
一見静かで厳格な構造のなかに、幼い祈りのようなものが見え隠れする。

無謀で、儚くて、実現不可能な理想。
でもそこに、私は未来を感じる。
**「希望は、絶望を知ってなお、そこに火を灯すことだ」**と、カーンは建築で語っているように思える。

そしてそれは、武心脱力™が持つ“あたたかさ”や“ゆるし”にもつながっている。


■ ミースとカーン──矛盾か、二重性か?

ミースとカーン。
ふたりの思想は矛盾しているか?

私は、そうは思わない。

それはむしろ、「秩序」と「祈り」という世界の両端に位置する問いなのだ。

  • ミースが「世界はこうあるべきだ」と語るとき、
  • カーンは「それでも、こうでありたい」と語っている。

ミースの建築は「世界を沈黙させる構造」。
カーンの建築は「沈黙の中で語り出す人間」。

そして私は、そのあわいに立ちたい。
祈りすぎず、整えすぎず。
意味を削りながら、感情を手放さず。
呼吸するように、在ることの強さ。


■ 結び──武心脱力™は、ミースの構造を受け入れたカーン的試みである

私が創っている「武心脱力™」という方法論は、
ミースのように「全体性を掴み」、
カーンのように「そこに生命の火を灯す」行為である。

どちらかではなく、その矛盾を引き受けることそのものが、わたしの構造であり、裂け目であり、生き方だ。

整えすぎると、死ぬ。
情熱すぎると、壊れる。
だがその両端を知った身体だけが、
「今、ここに立つ」ことの意味を知る。