裂け目と構造のあいだで──フォンタナとステラを見つめる、身体の位置から

アートを見つめるとき、
私たちはしばしば「好き嫌い」や「理解できるか否か」で評価しようとする。
だが、ごく稀に、
**“否応なく揺さぶられてしまう作品”**に出会う。
それは理屈を超えた不快でも、畏敬でもない。
もっと身体的で、もっと原始的な──「触れたら壊れてしまいそうな何か」に触れてしまった感覚。
フランク・ステラとルチオ・フォンタナ。
このふたりの作品を前にしたとき、私はいつも身体が揺れる。
■ フォンタナ──裂け目としての希望、しかし古びた風景
フォンタナの“コンチェッティ・スペイシャリ”。
切られたキャンバス。
そこに宿るのは、「空間」という概念そのものに対する反抗でもあり、祈りでもある。
私はそこに好意を感じる。
なぜならその裂け目は、明らかに“問い”を開いているからだ。
否定ではなく、開口部。
破壊ではなく、導線。
だが時折、その問いすらも形式化された過去として、自分の中で色褪せて見える瞬間がある。
切るという行為が、現代の身体にはもはや“重み”を持たないのではないか、という疑い。
問いは美しい。だが、問いもまた時に老いてしまう。
■ ステラ──構造の圧力、理解を拒む崇高さ
一方でステラは、私に好意すら抱かせない。
だが、否応なく“見てしまう”。
黒の反復、構造の沈黙、意味の抹消。
そこには、私の中の「解釈の習性」が一切通用しない、壁のような存在感がある。
その壁は、私に**“生理的な正しさ”を許さない。**
つまり、「好き・わかる・腑に落ちる」といった安心から引き剥がされる。
それが、不快であり、そして同時にどうしても目を逸らせない理由でもある。
そこには、“意味のない秩序”があり、
“意図を拒む美”がある。
それはまるで、人間を拒絶する構造そのもののようで──
そして私は、そんな構造にどこかで憧れている自分に気づく。
■ 私の身体は、どこに立っているのか
このふたりを前にすると、私は感性ではなく、「姿勢」を問われているような気がする。
フォンタナは、「問い続けよ」と語る。
ステラは、「問うな、在れ」と突きつける。
前者は親密で、人間的だ。
後者は冷たく、宇宙的だ。
だからこそ私は、フォンタナには「共感」を、ステラには「服従のような緊張」を覚えるのだろう。
だがその両方ともが、私の内なる“武心脱力™”の根に触れている。
問いを開く力と、構造の中で沈黙する力。
どちらも、身体のなかで生きている。
■ 武心脱力™という在り方は、裂け目でも構造でもない
武心脱力™とは、
「切り裂くこと」でも「構造化すること」でもない。
それは、問いが過ぎ去ったあとの沈黙の中に立ち上がる、“呼吸”のような在り方だ。
- 構造の中に裂け目を感じる。
- 裂け目の中に、軸を立てる。
そのあわいにこそ、
私のメソッドは芽吹くのだと思う。
それは、理屈を超えた「在り方」そのもの。
問いを持ち、問いを手放し、
ただ静かに立つ。呼吸する。
■ 結びに──ステラとフォンタナの“間”に立つ者として
私は今も、フォンタナに親しみを感じ、ステラに無視できないまなざしを向ける。
だがその両者のどちらでもなく、
その「裂け目と構造の狭間」に、静かに立ちたい。
その場所にこそ、
武心脱力™が、
そして、わたしという身体の言葉にならない存在が、
息をしているのだから。