親密さから生まれる場

らん武は、親密さをベースにしている。

その結果として、
最小限の人数でのレッスンという形を選んでいる。

それは、効率のためではない。
むしろ逆で、効率は悪いのかもしれない。

だが、できる限り丁寧なサービスを提供したいと思っている。

私は、一つ一つのレッスンに対して、無責任になりたくない。


多くの場は、大勢を相手にすることを前提にしているように感じる。

言語で丁寧に指導するというよりも、
「感じて覚えろ」という空気がある。

型を繰り返す中で、自然と深まること。
「学ぶは真似ぶ」という考え方。

それ自体は、決して間違いではないと思う。

だが、そこには一つの前提がある。

理解できる人間は、自然と残るという前提だ。


先生は説明してくれても、
“理解させよう”とはしてくれない。

そういう教育を受けてきて、
結局同じことを繰り返す構造が出来上がる。

そしてもう一つ。

常に「大勢を見る視点」で語られることにも、違和感がある。


落ちこぼれは、拾われない。

吸収のスピードは人それぞれで、
得意不得意も当然違う。

ついていけない人間は、置いていかれる。


本来、すべての人間の中には、
それぞれ異なる優れた部分がある。

だが、それを発見して伸ばすことは、
複数人を同時に見ている状態では難しい。

なぜなら、

そこには無関心が生まれるからだ。

人は、見られていないことを感じ取る。

私は、その感覚が嫌いだ。


だからこそ、少人数である必要がある。

一人一人と向き合い、
言葉を使い、
やり取りをする。

その中でしか生まれない理解がある。


伝えることで伸びるものがある。

そして、そのやり取りの中で、
こちらもまた学んでいる。

これは、一方通行ではない。

対話だ。


対話がなければ、遊ぶ喜びは伝わらない。


ふと思い出すのは、学生時代に通った塾のことだ。

私は個別授業をお願いしていたが、
とても教えるのが上手い先生だった。

評判の良い先生だったと記憶している。


やはり、「誰に教わるか」で、
その人の世界は大きく変わる。

上手に教われば、
苦手意識ではなく、楽しさが残る。


そして、その楽しさは、
どこかの未来につながっていく。


らん武が提供しているのは、
技術だけではない。

親密さの中で生まれる、
理解と遊びのある時間だ。