酒と向き合う──二十年の旅と、眠る時間の記憶

日本酒と出会って、もう二十年が経つ。
二十歳でその扉を開けてから、全国の銘酒を巡ってきた。
その旅は、ただ酒を飲むという行為を超えて、文化に触れ、技に驚き、自分という感性を確かめていく時間だった。

寝かされた酒を、さらに寝かせる。
今、専用の冷蔵庫の中で静かに眠る幾本かの瓶たちは、単なる嗜好品ではない。
時間を封じ込めた標本であり、杜氏たちの魂を映す鏡である。

飛躍の契機となったのは「能登四天王」と呼ばれる四人の杜氏たちとの出会いだった。
農口尚彦、波瀬正吉、三盃幸一、中三郎。
なかでも、波瀬杜氏の最後の仕込みである「波瀬正吉」は、忘れられない余韻を残した。
だが、最も心を揺さぶられたのは、農口杜氏の「益荒男 山廃吟醸」。
これは今、二本を寝かせているが、まだその封を切る気にはなれない。
蔵を移してから最初に世に出した「農口」──そろそろ開けたいと、密かにその時を思案している。
そして、最後の一本となった「黒龍 垂れ口」。
これは二十年近く眠っている。開ける日は、まだ遠い。

私は、料理に重きを置かない。
塩ひとつで酒が飲める。
むしろ、料理が介在すると酒の世界観が崩れてしまうように感じる。
だから、まっすぐに、酒そのものと向き合いたい。
器は、そのための“道具”にすぎない。
古唐津、古備前、古染付──探求は器にまで及ぶ。
特に、信じられないほど薄く繊細に作られた古染付の口縁は、酒の味を鋭く際立たせてくれる。
しかし、普段手に取るのは古唐津。飽きが来ない、柔らかさがある。

今は、菊姫の「山廃純米」を日常酒としている。
派手さはないが、飲むほどに体に馴染む、まさに信頼できる一本。
名人たちの酒は、もう手に入らない。
だからこそ、残された瓶たちは、私にとって“時間そのもの”なのだ。

日本酒は、ただの酒ではない。
米と水、酵母と蔵人が織りなす芸術であり、文化であり、時間の記憶である。
飲むたびに、新たな発見がある。
扉がひとつ、またひとつと開き、深みへと誘われる。

私はきっと、これからもこの静かな旅を続けるのだろう。
ただ、酒とともに。
語らず、急がず、向き合いながら。