意識しないことの大切さ

指導において重要なのは、いかに言語化するか、いかに伝えるかだ。
これは多くの人が知っている事実だろう。

しかし、言語化を重ねすぎると、頭の中では言葉がぐるぐると巡り始める。
考えるという行為は、実は筋肉を使う。
なぜなら「頭を使う」とは、言語を介在させることだからだ。

言語が介在すると、
思考してから動く
という流れが生まれる。

この「思考」が、一呼吸分、動作を遅らせる。

なぜ遅くなるのか。
それは、意識してしまうからだ。

仕事でも同じだ。
慣れてくると、人は無意識に動くようになる。
言葉を交わさずとも、自然に連携が取れるようになる。

夫婦の阿吽の呼吸もそうだろう。
言語を廃し、瞬時に経験が目的を汲み取り、共有される状態。
そこには「考える」という段階が存在しない。

稽古とは、まさにこの状態を養うために行うものだ。

稽古をしない人間は、絶対に辿り着けない。
なぜなら、呼吸をするように動くことが必要だからだ。

それは、特別な時間にだけ行うものではない。
何気ない毎日を積み重ねることと同等に、
繰り返されなければならない。

ただし、古武道の稽古には一つの難しさがある。
対で型を行う稽古は、対人の中でしか理解できない。
つまり、道場に通うことでしか養えない感覚が多い。

その中で、人は「感じること」を蓄積していく。
言語化よりも、感覚が優先されてきた世界だ。

その結果、流派だけが無駄に増え、
淘汰され、
大きく、薄っぺらいものだけが残っていった。

言語化されなかったがゆえに、
本質は後世に残らなかった。

ここで誤解してほしくないのは、
「考えるな」と言いたいわけではない、ということだ。

考えることと、考えないこと。
この二つを行き来しなければ、掴めないものがある。

ずっと考えていると、人は「考える癖」がつく。
この癖が、実は一番厄介だ。

考えないということは、
気を抜くことでも、投げ出すことでもない。

それは、
一気呵成に行う感覚だ。

迷いなく、ためらいなく、
今あるものを、そのまま使い切る。

考え、
手放し、
また考え、
また手放す。

この往復の中でしか、上達は起こらない。

考え続けても辿り着けない。
考えなさすぎても身につかない。

その間を行き来しながら、
人は少しずつ、
「考えなくても動ける身体」に近づいていく。

そしてもう一つ。

根を詰めること自体が、悪いわけではない。
楽しいのであれば、夢中になればいい。

没頭できる時間は、尊い。

ただし、苦しくなったなら、手放せばいい。
無理に続ける必要はない。

これもまた、行き来だ。

力を入れることと、抜くこと。
集中することと、離れること。
考えることと、考えないこと。

どちらか一方に固まった瞬間、動きは止まる。

続くものは、いつも呼吸をしている。
吸って、吐いて。
詰めて、緩めて。

その往復の中でしか、人は前に進めない。

結局のところ、
考えずに動けるようにならなければ、何も始まらない。

だが同時に、
考えることを経ていなければ、
その境地にも辿り着けない。

稽古とは、
生き方とは、
その「行き来」を許し続けることなのだと思う。