対立軸で物事を見せられたときに、少し立ち止まって考えたいこと

最近、物事を「対立軸」で見せてくる人や言説をよく目にします。
AかBか、敵か味方か、正しいか間違っているか。
そうした構図はとてもわかりやすく、鮮烈で、つい目を奪われてしまいます。
けれど私は、対立軸が前面に出てきたときほど、少し気をつけたほうがいいと思っています。
対立軸は「興行」に似ている
対立構造は、ある意味でとても強い力を持っています。
人を熱狂させ、感情を揺さぶり、注目を集める。
ただ、それはどこか格闘技の興行に似ているとも感じるのです。
リングの上では激しく戦っているように見えても、その裏には興行主がいて、
観客の熱狂そのものが「価値」や「利益」になっている。
対立そのものよりも、
対立を生み出すことで得をしている何かが存在している可能性は、常にある。
だからこそ、感情の渦の中に入り込む前に、
一度、興行主の視点に立ってみる。
視点を外に置いてみる。
それだけで、見えてくる景色はずいぶん変わります。
熱狂の中に入らず、「外の目」を持つ
対立軸があると、どうしても人はその内側に引き込まれます。
正義の側に立ちたい、間違いを叩きたい、負けたくない。
その感情自体は自然なものです。
けれど、熱狂の中にいる限り、視野は狭くなる。
武道には「広い視点で対立を制する」という考え方があります。
一対一だけを見ていると、背後や周囲が見えなくなる。
対多人数であればなおさら、
個々の相手と戦うよりも、状況そのものを把握し、利用し、退くことが重要になります。
これは単なる戦い方の話ではありません。
身を守るために、最も大切な考え方
私が「身を守る」というとき、
それは単に物理的な暴力から逃れることだけを指していません。
- 思想的に追い込まれる
- 感情を煽られ、判断力を失う
- 不要な対立に巻き込まれて消耗する
こうした精神的な攻撃も、同じく「身を脅かすもの」だと考えています。
だからこそ、
対立に真正面から乗らないこと。
一段外から状況を見ること。
これが、身を守る上で最も大切な態度の一つだと思っています。
考え方は、体から生まれる
そして私は、
考え方は体から生まれるとも思っています。
心のあり方と、身体のあり方はつながっています。
体を緊張させ、前のめりで構えると、心もまた戦闘的になる。
体に余白があり、全体を感じられる状態にあると、心も広がる。
体を「広く」使える人は、
心もまた、広く動かすことができる。
武心脱力™で行っていることは、
単に動きを覚えることではありません。
状況を俯瞰し、巻き込まれず、必要なら離れる。
そのための身体感覚を育てることでもあります。
対立しないという強さ
対立しないことは、逃げではありません。
むしろ、それはとても高度で、静かな強さです。
何に反応し、
何に反応しないかを選べること。
その選択ができる状態でいることこそが、
本当の意味で「身を守る」ことなのだと、私は考えています。


