コラム
恐怖と居着き

恐怖は人を縛りつける。攻撃を受ける恐怖、失敗する恐怖、他人の評価を気にする恐怖──そのどれもが心を固め、身体を硬直させる。恐怖から生まれる居着きは、武道において致命的であり、動きの自由を奪ってしまう。 だから稽古の目的は […]

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捨てる稽古

稽古とは、技を積み重ねることではない。むしろ、積み重ねたものを一つひとつ手放していくことだ。 知識を捨て、力みを捨て、そして我を捨てる。重ねるよりも削ぎ落とすことこそが、稽古の本質である。 そうしてこそ動きは作為を離れ、 […]

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美と強さが=となる稀有な存在

美しいことと強いことは、誰にでも許されるものではない。強さにだけ偏った人、美しさだけで中身が伴わない人──そのどちらも多く存在する。だが、美と強さが完全に重なり合う瞬間、それは極めて稀で、ほとんど奇跡に近い出来事だ。 そ […]

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捨てる武道論(後編)

――無意の気配に立ち現れるもの お年寄りがふと背後に立ったとき、驚くほど気づかないことがある。気配を殺そうとしたわけでもなく、技術的に隠れたわけでもない。ただ、そこに「気」がないからだ。無意識の存在は、ときに底知れぬ恐怖 […]

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捨てる武道論(前編)

――積み上げの果てにあるもの 武道を続けていると、不思議なほど日常の動作までが稽古の延長に思えてくる。立ち上がる、歩く、振り向く──その一つひとつが「型」のように感じられ、呼吸や視線までもが武道的な意味を帯びてしまうのだ […]

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美を所有する。

かつて、全国の美術館やギャラリーを巡った。しかし、いつからか、目に止まる作品しか見なくなった。展示空間に漂うあの清潔で無菌的な空気。白い箱は、美の棺だ。 絵画も彫刻も、勉強として見ることはできる。けれど、そこに“実感”は […]

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古雅という美

「古雅」という言葉がある。私は、美とは、この一語に尽きるのではないかと感じている。 ――雅でなければならない。 どれほど“ひょうげた”ものであっても、そこに雅が宿っていれば、それでよい。それは、個の品格に他ならない。 孤 […]

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「美を買う」という覚悟

美について語るとき、必ず金額の話になる。だがそれを忌避しているうちは、美についての対話には立ち会えない。 「自分の手の届く範囲で」などと口にした時点で、美はその土俵から消える。無理をしてでも欲しい。それでも手に入れたい。 […]

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美の懐(ふところ)後編

結局、美そのものにしか答えはない。それを内包した「モノ」、そしてそれを見抜く「目」。美とは、モノと目の関係性に宿る。 「美の懐」とは、モノの問題ではない。それを見る目がどれだけ養われているかの問題だ。どれだけの時間を美に […]

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美の懐(ふところ)前編

美の「価格」は、欲する者の数で決まる。希少性、流行、話題性──いずれも美を貨幣価値に変える要素だ。だが、それはあくまで表層の評価でしかない。 本当の美には、その価値を受け入れる「懐(ふところ)」がある。懐が浅ければ、どん […]

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