美とは時間だ。効率化の時代に、紙の手触りは意味を持つのか

私は昔から読書が好きだった。
いわゆる、本の虫だった。
学生時代は、よく徹夜で本を読んだ。
時間を忘れて文字を追い、気がつけば朝になっている。そんなことが当たり前だった。
あの頃は、まだガラケーの時代だった。
PCも、立ち上げるまでに時間がかかる。
ネットに繋ぐこと自体が、今ほど直感的ではなかった。
だからこそ、本を読むことと、文字を書くことと思考が、自然に繋がっていたのだと思う。
私は元来、アナログを好む人間だ。
効率よりも、手間の中に宿るものを信じている。
ページをめくる感覚。
紙の匂い。
余白に書き込まれた独り言。
ゆっくりと進む時間。
今振り返れば、私はその頃に積み重ねた膨大な独り言を、今も辿っているだけなのかもしれない。
もちろん、時代は変わった。
効率化のスピードは凄まじい。
AIは文章を書き、映像を作り、思考を補助し、人と世界を繋げる。
おそらく近い未来、人間は「操作する」という行為すら減っていく。
思考するだけで、物事が完了する時代が来るだろう。
それは想像以上に早い。
便利になること自体は悪ではない。
むしろ、思考をまとめ、世界へ届けることが、かつてないほど簡単になった。
これは素晴らしいことでもある。
しかし一方で、芸術とは何かを考えると、私はどうしても別の感覚を捨て切れない。
芸術とは、効率に対するアンチテーゼでもあるのではないか。
最短距離では辿り着けないもの。
無駄に見える時間。
不器用に悩み、遠回りし、何度も失敗した痕跡。
そこに、人間の美しさが宿る。
私は、
「美とは時間だ」
と思っている。
どれだけ効率的に結果を出せるかではなく、
どれだけの時間を、その人が真っ直ぐに生きたか。
その沈殿が、人の言葉や動きや表情に現れる。
身体も同じだ。
効率だけを求めると、動きは薄くなる。
しかし、時間をかけて身体と向き合った人の動きには、独特の深みがある。
それは技術だけではない。
生きた時間そのものが、身体に滲み出るのだ。
だから私は、未来になればなるほど、紙の手触りや、あの頃の時間認識は価値を持つと思っている。
効率化された世界では、時間をかけること自体が贅沢になる。
すぐ答えが出る時代だからこそ、
遠回りをした人間の言葉は重くなる。
便利さの中で失われるものもある。
しかし、人間が人間である限り、消えないものもある。
紙をめくる感覚。
静かな夜。
誰にも見せない独り言。
あの非効率な時間の中に、人間の美しさは確かに存在していた。


