清廉な空間に宿るもの──伊藤久三郎のアトリエと、武道の道場について

伊藤久三郎は、日本のシュルレアリスムを語るうえで、教科書にも名を連ねる作家である。
だが、私にとって彼は「知識として知っている画家」というよりも、どこか引っかかり続ける存在だった。
作品そのものも印象的ではある。しかし、決定的だったのは、彼が亡くなった後に残されたアトリエを目にしたときだ。
その空間を見た瞬間、私はハッとした。言葉にする前に、身体のほうが先に理解してしまった、と言ったほうが正確かもしれない。
張りつめているのに、息苦しくない空間
伊藤久三郎のアトリエは、驚くほど整えられていた。
潔癖と言ってもいいほど、物の配置には無駄がなく、曖昧さがない。にもかかわらず、そこには冷たさがなかった。
一般に、強い拘りは空間を硬直させやすい。
整理されすぎた部屋は、時に人を遠ざける。しかし、あのアトリエには、人の気配が確かに残っていた。むしろ、静かな温度のようなものを感じた。
おそらくそれは、伊藤久三郎が作品に向き合い続けた時間、その姿勢そのものが、空間に染み込んでいたからなのだと思う。
作品だけではなく、作品に向き合うための「場」そのものが、彼の表現だったのだろう。
芸術家のアトリエと、武道の道場
あのアトリエを見たとき、私は不意に、武道の道場のことを思い出した。
特に、早朝の道場である。
誰もいない時間帯。
空気がまだ一度も乱されていない状態。
床に落ちる光と、ひんやりとした静けさ。
私はその時間が好きだった。誰よりも早く道場に行き、掃除を済ませる。箒で床を掃くと、シャッ、シャッ、と乾いた音が道場に響く。
あの音を聞くと、自然と呼吸が整い、身体の芯が落ち着いてくる。
誰に見せるでもなく、評価されるわけでもない。
ただ、その場を整え、ひとり稽古をする。
真面目さと、職人気質の残り香
伊藤久三郎のアトリエと、武道の道場。
ジャンルはまったく違うが、私はそこに共通するものを感じる。
それは、日本人が長く培ってきた真面目さであり、職人気質の残り香だ。
効率や合理性とは別の次元で、「まず場を整える」という姿勢。
場が整えば、余計なことをしなくても、自然とやるべきことが浮かび上がってくる。
作品も、技も、無理に生み出すものではなく、場の中から立ち上がってくるものなのだと思う。
私の武道に対する姿勢は、ここにある
振り返ってみると、私の武道に対する姿勢は、すでにあの時間にすべて表れていたのだと思う。
派手さも、誇示もない。
誰かに認められるためでもない。
ただ、場に向き合い、自分の身体と向き合う。
その積み重ねだけが、後になって技や思想として現れる。
結局のところ、私は今も、同じ匂いを持つ「同族」には出会えていない。
だが、それでいいとも思っている。
伊藤久三郎のアトリエが、彼という人間を雄弁に物語っていたように、
私にとっての武道もまた、言葉より先に、空気や所作によって語られるものなのだから。


