無駄のかたまりを愛せること──ジムニーと生きるということ

20年以上乗り続けている。
1995年式ジムニー JA11、5型、幌車。
シートはレカロ、構造変更済みで2人乗り。
便利とは言えない。燃費も悪い。夏は暑くて冬は寒い。でも、これ以上に“自分に似合う車”は他にない。

最初に乗ったのもJA11だった。
それ以来、車はジムニーしか持ったことがない。浮気も、気まぐれもない。ただこの一台に、ずっと寄り添ってきた。

憧れはある。SJ10──通称ジムニー55。
あの2ストの唸るような音、走るというより跳ねるような軽快さ、角ばった造形の中に込められた野性のような力強さ。
でも実際に乗り続けているのは、扱いやすく、気難しくなく、どこへでも連れて行ってくれるJA11だ。無骨だけど素直な相棒。便利すぎないところが、ちょうどいい。

気づけば、自分は無駄ばかりを愛している。
無骨なSUV──ゲレンデバーゲン、ハマー、ジープ。
あのゴツゴツしたフォルムに惹かれる一方で、ジムニーの小さくて可愛いシルエットに、なによりも惹かれてしまう。
それはもしかすると、自分自身の不器用さや不恰好さすら、愛してやろうとする気持ちなのかもしれない。

そう考えると、ジムニーとは“生き方”だ。
最短距離を目指さず、険しい山道でもじっくり登る。
華やかさより確かさ。快適さより自由。
便利じゃないからこそ、手をかける意味がある。
非効率で、面倒くさくて、でも魂が震える。
それこそが、自分にとっての“無駄の美学”なのだ。

現実には、ガソリン代に閉口することもある。
ハイブリッド車が羨ましく見える日だってある。
でも、それでもジムニーに乗りたい。
いや、正確には──ジムニーで“生きたい”。

憧れのロータスは、所有したい存在。
そのロゴには、哲学がある。歴史がある。
実際には高性能ではないかもしれない。でも、“意味”がある。
意味のある無駄は、もはやアートだ。

だから僕は思う。
稼ぎたい。生きたい。
だけど“無駄を愛したい”。

ジムニーに乗っている限り、僕はその矛盾の中で揺れていく。
でもその矛盾こそが、生きている証なのだと思う。