細部という名の暴力、そして祈り──神はどこに宿るのか

かつて、私は鬱に苦しんだ。
そのとき初めて知った。
「こだわり」は、時として人を殺す。
完璧に仕上げたつもりの作品、
細部まで整えたはずの空間、
何度も見返し、研ぎ澄ました言葉。
それらすべてが、自分自身を締め上げる縄のように、首を絞めていた。
「もっと良くあれ」
「もっと高くあれ」
「もっと完璧であれ」
その声が、内側から聞こえる。
そしてその声は、自分を壊すために存在していた。
■ 「神は細部に宿る」は呪いか、救いか
建築家ミース・ファン・デル・ローエが遺したとされる言葉、
「God is in the details(神は細部に宿る)」。
この言葉は、長く私を縛ってきた。
細部を詰めろ。整えろ。妥協するな。
そうすれば「神」に触れられるのだと、そう信じていた。
だが、そうして見つめ続けた細部は、
時に人を壊す。
それが真実だと?
人を殺してまで成立する「細部」に、神など宿るのだろうか?
そんな細部なら、いらない。
■ 本物の細部を生み出すのは、遊びだ。
私がいま、武心脱力™という方法論の中で信じているのはこれだ:
「細部を生み出すのは、緊張でも努力でもない。
夢中に遊べる人間だけが、細部に神を宿すことができる。」
大人になっても、遊びに没頭できる人。
意味もなく線を引き、ただその“感じ”を信じて動く人。
美や技術のためではなく、世界と戯れるために表現する人。
そういう人だけが、本当に細部をつくれる。
そして、その細部だけが、生きる。
■ 現象は非情だ。だから騙されるな。
世の中は、売れることが正義になっている。
流行っていることが、正解になっている。
そしてその波に乗ってくるのは、
知ったかぶりをした“プロ”の仮面をかぶった凡庸な観察者たちだ。
彼らは、
- よく見える場所に立ち、
- 使い古された言葉で褒め、
- 本当の痛みに触れずに、
- 芸術村の住人を装う。
だが、彼らの細部は空っぽだ。
そこに宿るのは神ではなく、商業と操作だけ。
■ 遊びの中でしか、真実は見えない。
私は、人を壊すような美を信じない。
自分を犠牲にしてまで整えた“完璧な細部”に、もはや魅力を感じない。
そうではなく、
ふとした線の揺らぎに、
手の抜け感に、
思いがけない沈黙に、
“あ、神がいるな”と感じる瞬間がある。
そしてそれは、たいていの場合、
「遊んでいるとき」にしか現れない。
結びに──細部とは、祈りではなく “応答” である。
細部は、つくり込むものではない。
細部は、世界との“応答”の痕跡だ。
遊びの中で手が動き、
気づけばそこに美が宿る。
それは**「わたしが生み出した」のではなく、
「世界から返ってきたもの」**だと思っている。
武心脱力™も、同じだ。
ただ動き、ただ呼吸し、
“整えよう”としないときに限って、
身体は最も美しい「細部」を立ち上げてくる。
それを見たとき、
「神は細部に宿る」という言葉が、
ようやく、呪いではなく祝福として聞こえてきたのだ。