先生と呼ばれることについて

私は、指導する立場として場を開いている以上、レッスン中は「先生」と呼ばれる。

だが、自分自身を「先生」だと思ったことは一度もない。


世の中には、「先生」という職業があり、
その役割に合わせて“先生らしく振る舞う”人も多い。

いわゆる「先生ぶる」という在り方だ。

しかし私は、それにどこか違和感を感じている。

なぜなら、仮面を被る必要がある時点で、
すでにそこには不自然さが生まれているからだ。


大切なのは、常に自然体であること。

常住坐臥。
どこにいても、何をしていても、自分であること。

レッスン中だけ先生になるのではなく、
常に一人の人間として在る。

それだけだ。


「先生」という言葉は、本来、関係性の中で生まれるものだと思っている。

誰かが何かを学びたいと思い、
その場において導く役割が必要になったとき、
結果としてそう呼ばれる。

それは固定された存在ではなく、
あくまで一時的な機能に過ぎない。


だから私は、「教える側」と「教わる側」という上下の関係を前提にはしていない。

関係は対等であるべきだと考えている。

対等であるからこそ、
互いに真っ直ぐに向き合うことができる。

対等であるからこそ、
本当の意味での気づきや変化が生まれる。


一方で、立場や肩書きによって相手を抑え込もうとする人もいる。

それは強さではない。

不安から自分を守るために、
関係性ではなく“立場”で優位に立とうとする状態だ。

そうした在り方は、どこかで必ず歪みとして現れる。


武道とは、本来そうしたものとは対極にある。

相手をねじ伏せるためのものではなく、
関係の中で調和し、流れをつくるものだ。

そのためには、自分自身が整っていることが何よりも重要になる。


外連味のある振る舞いは、いずれ見抜かれる。

だからこそ必要なのは、飾ることではなく、
ただ真っ直ぐに向き合うこと。

真っ直ぐな人間には、真っ直ぐな人間が集まる。

私はそう信じている。


先生ぶる必要はない。

私は私として、目の前の人と向き合うだけだ。

その中で、自分の価値を問い、
相手の反応からまた学ぶ。

そうした往復の中にこそ、
本当の意味での学びと成長があるのだと思う。


「教える」というよりも、
共に向き合う。

それが、私の考える在り方である。