捨てる武道論(後編)

――無意の気配に立ち現れるもの

お年寄りがふと背後に立ったとき、驚くほど気づかないことがある。気配を殺そうとしたわけでもなく、技術的に隠れたわけでもない。ただ、そこに「気」がないからだ。無意識の存在は、ときに底知れぬ恐怖を呼び起こす。気づいた瞬間に、ゾッと背筋が冷たくなる。

武道の行き着く先とは、この「気の無さ」に身を投じることかもしれない。けれど、それだけでは足りない。気を消すだけではなく、自在に「気」を操作できなければならない。生かすも殺すも、気の出し入れひとつで決まる。

「殺意無くして相手を殺す」――その矛盾を抱えながら、私たちは稽古を続ける。力を持ちながら力を使わず、意図を抱きながら意図を示さず、構えを取りながら構えを超える。

結局のところ、武道とは「積み上げ、そして捨てる」営みだ。積み上げなければ捨てるものはなく、捨てなければ自然には至らない。残るのはただ、何も持たない身体と、無意のうちに生きる心。その一挙手一投足こそが、武道の極みへとつながっていくのだ。