「捨てられた世界線――日本人と西欧のすれ違い」

日本人は、自らの「発展」「近代化」「豊かさ」を手に入れるために、
長い歴史のなかで積み重ねてきた独自の身体知や生活文化――“もうひとつの世界線”を、
ほとんど無意識のうちに捨て去ってしまった。
かつて床に座り、ナンバで歩き、丹田で動いていた世界は、
椅子の生活、分節的な運動、欧米型の合理性へと塗り替えられ、
やがて「古臭い」「時代遅れ」として遠ざけられるようになった。
けれど、それは“失っただけ”ではない。
本当は「全く別の身体の世界」「もうひとつの可能性」が存在していたということだ。
西欧とは異なる、美と感覚、空間と動き、身体と精神の統合――
そこには、近代化や効率化とは別の「人間のあり方」が隠されていた。
日本人自身がその価値を見過ごし、
世界の多様性のひとつを、自分の手で閉じてしまったのかもしれない。
一方、欧米社会はどうか。
日本人が捨てたその「もうひとつの世界線」について、
彼らはほとんど何も感じていない。
彼らは日本的身体知を搾取しようとしているわけではないし、
自分たちの合理的な枠組みを押し付けようともしていない。
彼らにとって「日本の武道」は、あくまで新奇で美しいエキゾチックな文化――
自分たちにはないもの、好奇心やブームの対象でしかない。
「武道ブーム」は世界的な広がりを見せているが、
それが“日本人自身が手放したもの”だという事実に、
欧米の多くは無自覚だ。
けれど本当に「鈍感」なのは、実は日本人自身なのかもしれない。
武道が世界で称賛され、観光資源や商品としてもてはやされる一方で、
私たち自身はその根本に宿る「身体知」「生きた文化」の意味を
いまやほとんど感じ取ることができなくなっている。
古いものは「ノスタルジー」として消費され、
新しいものは「外からやってくるもの」として受け入れる――
そんな時代が長く続いた結果、
私たちは自らの「もうひとつの世界線」の価値を、
本当に見失いかけているのではないだろうか。
誰も搾取しようとしたわけではない。
だが、自分たちが気づかずに“失った世界”――
それは、二度と元には戻らないかもしれない。
そして、そのことに一番鈍感でいるのが、
今を生きる私たち自身なのだ。


