現実と神秘のあいだに

私は神秘主義者ではない。
けれど、オカルトめいた話題はどこか好きだ。
それは、真夏の夜に語られる怪談に似た、
季節の風流に触れるような感覚だ。
幽霊画には厄除けの意味があったという。
人は“意味嫌う世界”を、どこかで覗き見たいと願うものらしい。
九相図が話題になるのも、きっと同じ理由だろう。
死や腐敗、醜悪なもの。
それらは日常から遠ざけられた「異界」として、
いつの世にも人の関心を集めてきた。
けれど、私は知っている。
現実は現実でしかないことを。
私は特殊清掃という仕事に携わっていた。
生と死が交錯し、誰もが目を背けたくなる場所に、
日常的に身を置いてきた。
そこに“霊的な気配”など一ミリもない。
あるのは、必死な作業と、圧倒的な現実だけだ。
道元は言った。
「妖怪はいるかもしれないが、仏教とは関係がない。」
仏教は学問であり、怪異を否定はしないが、
その“世界線”が違うのだ、と。
私はこの思想に感銘を受けた。
「自分の現実とは無関係である」と切り捨てる潔さに。
同時に、「否定もしない」という懐の深さに。
神秘主義は、芸術のなかで一つの文脈を持つ。
カンディンスキー、モンドリアン、草間彌生。
彼らは、見えない世界を芸術に託した。
私はそれを否定しない。
存在の意味は確かにある。
けれど、それは「私」とは無関係だ。
私自身は、現実にしか興味がない。
私は“弱者”に共感する。
それは、私自身が弱者だからだ。
神秘主義者にも同じことを思う。
彼らもまた、マイノリティである。
許容はするが、私と同じではない。
けれど、マイノリティはマイノリティ同士で、
共存することはできると思う。
傍から見れば、同族に見えることもあるらしい。
バカだな、と思う。
だが、マイノリティは自らを押し付けてはならない。
生きている世界が違うのだから、
身を寄せ合っても、押し付けてはならない。
スピリチュアルは、私のなかでは一つのエンターテイメントだ。
夏の怪談のように、遊ぶことはできる。
けれど、私は信じてはいない。
私にとって現実は、学問であり、夢である。
この現実の厚みこそ、私が生きる場所なのだ。


